日本唯一の祝凧職人が作り出す
ハレの日の贈り物
たかはし ひでみ
高橋 日出美
(大社の祝凧)
大社町出身。 民芸品・伝統工芸品職人 三代目。 42歳の時に二代目の父が他界し、後継者となる。 1982年島根県ふるさと伝統工芸品に指定。 民芸品としても受賞多数。 日本で唯一の祝凧職人。
出雲大社の氏子たちが作り出した伝統・祝凧
昔、出雲大社の氏子たちが千家・北島両国造館でお祝い事があると稲佐の浜で凧を揚げるという風習があったんですわ。それが祝凧です。その頃は職人はおらんで、氏子が自分たちで作っとったようです。この風習は元禄の頃から始まり、明治の頃には無くなってしまったんですね。
私の祖父が親戚の蔵の中で昔の祝凧を見つけ、小さな祝凧を装飾用に作ったのが“高橋祝凧”の始まりでした。もともと祖父は和傘なんかを作っとりましたけんね。
最初は誰もに見向きもされんだったんです。それが戦後、ある有名な先生の目に止まって「竹とんぼ」という郷土玩具専門誌で紹介されたことがきっかけで全国に一気に広まったんですよ。
祝凧には「鶴」と「龜」があります。出雲大社の背後には鶴山、亀山という山があります。それぞれの麓にあるのが千家さんと北島さんです。
鮮やかな赤の「鶴」は千家家がある鶴山が由来。鶴の文字の中には、羽を広げた鶴が木に止まっています。右側の文字は、ひらがなで「つる」や、穀物や家宝を連想させる「くら」とも読めます。色々な要素が詰め込まれておるんですね。これは鶴山と同じく左側に飾ります。
力強い黒の「龜」は亀山・北島家に由来するものです。上に鶴山・亀山が模してあり、その下は鳥居があります。上部両側の膨らみは左が「打ち出の小槌」右が「大黒様の袋」、左下に福表現を多くと「夛」の文字、右下は「米」「二」(米俵二俵)の文字があります。亀山と同じく右側に飾ります。
1つの文字の中にそれだけの意味があって、昔の人はよく考えたもんですね。
小さな頃から
祝凧がある暮らしの中で育った
小さい頃から祖父や父の作業を見とったし、手伝ってきたけんね。自分が受け継いでいくんだという気持ちには自然になったもんです。
祝凧の他に、大社町に伝わる「じょうき・鯛車」なんかも作っとります。中学生の時に見様見真似で作った「じょうき」は今でもとってありますわ。だいぶ色も変わってしまったけど(笑)
祖父の後に父が継いだんですが、父は自分が42、3歳くらいの時に亡くなりましてね。父の死後すぐに受け継ぐことになりました。当時は会社勤めをしとったから、その合間にやるしかなかったけどね。でも小さい頃からずっと見てやってきたことだけん、苦にはならんかったね。
本格的に作りだしたのは退職してからですね。今は妻と2人で自分たちのペースで制作しとります。妻は父の代から手伝ってくれていたから自分よりも制作歴が長いかもしれんですね。
出西窯や民芸館、あとは物産館などに置いてもらっています。もちろんここに買いに来られる方もありますよ。観光客に地元の方、様々な方が来られます。
使用する紙は、和紙や障子紙を使うからどうしても劣化していきますわね。それでもまた買い換えたいと遠方からわざわざ買いに来てくれることもあるんですわ。
祝凧と言うくらいだけん、おめでたい時に飾ってもらうのが一番だね。だけどそれに限らず、自分の気に入った場所に飾ってもらえれば嬉しいね。玄関や和室、床の間に飾られる方も多いです。
以前旅行に行った先々で祝凧を見かけたこともあってね。「これどうしたんですか?」と聞けば「大社で買った」と。思いがけんところで、それはうれしかったね。
大事なのは骨組みとなる竹の質
よくどのくらいでできるの?と聞かれるんだけど、答えるのは難しいね〜。トータルで考えると長い期間をかけとりますね。
まず骨組みとなる竹を採りに行きます。持って帰った竹を割って干して乾燥させます。湿気を嫌うから梅雨が始まるまでに1年分削ってしまいますね。5月の連休までにはその工程を終わらせてます。そのあとは型取りした竹を組み合わせて和紙を貼り、型に合わせて文字を書きます。「鶴」や「龜」の文字のデザインは書き方や字の跳ね具合とか祖父や父、自分とそれぞれクセややり方など細かいところは違うけど、基本的に初代からのイメージを崩さないように守ってますよ。
竹は稗原や立久恵に採りに行くことが多いです。以前は日御碕の真竹を使っとったんだけど、鹿が食ってしまってね。もういいのがないみたい。竹は天候によっても変わってくるからね。もちろん、年によっても竹の質は変わってくるしね。
採ってきた竹は家で保管しとります。家全体が工房というか倉庫というか(笑)常に材料や道具に囲まれた生活ですね。作業場や道具には、自分が納得できる作業ができるように拘ってやってきたんでね。
伝統を守り、後世に伝えていきたい
「じょうき・鯛車」も作っていると先ほども言いましたが、大社の町では昔、それぞれの家庭で作った「じょうき・鯛車」という小さなコマのついた舟型や鯛型をした舟を子供たちが七夕から盆にかけて引いて歩く風習も江戸末期からあったんです。
中にはローソクを立てて、精霊流しの代わりに舟を引いて歩くんですよ。舟なのは港町ならではですかね。
その風習も数年前を最後に無くなってしまいました。全国でも色々な伝統が無くなっていってきているけんね。寂しいもんですよね。
祝凧も、もともとは杵築村の氏子の中で継承され、途絶えたものを祖父が復活させ父が受け継いだ。そして自分が受け継いだ。これからの祝凧について考えることもあるけど、伝統を守っていくのが精一杯だね。
後継者というか、今は娘や息子がボチボチ手伝ってくれていますね。子供たちは自分のように小さい頃から手伝っていたわけではないけどね。それでも今手伝ってくれるのは嬉しいことです。それぞれの生活をしながら時間も限られていて、やりだして間もないけど、少しずつ身につけていってくれたらなと思いますね。
竹の処理が一番難しいからね。それは体に覚えてもらって。あとの工程は頭で覚えればいいけど。
今後のことはわからんけど、何より祖父が作り、父が受け継いできたことを途絶えさせたくないですね。ずっと絶えず続いてくれればと思います。
出雲人が薦める出雲
- 野焼き
大社といえば野焼き。皮が少し固くて中が柔らかいという食感が好きだね。
- 釜揚げそば
割子そばもいいけど、釜揚げそばも美味しいですよ。
しょっちゅう食べるわけではないけど、不意に食べたくなりますね。